羽鳥商店

GO羽鳥(マミヤ狂四郎)の自由帳。

なぜ私は「ネットに書いてあった」「らしいよ」を絶対に信じないのか

「あなたは何を信じますか?」

 

そんな問いを投げかけられたとしたら、世界では多くの人々が、何かしらの神の名を挙げるのだろう。

 

ゴッドでもアラーでも、お釈迦様でもいい。

人は、見えない “なにか” に寄りかかって生きるものだ。

 

しかし日本はどうだろう。 神社に初詣へ行き、寺で墓参りをする。

宗派に属していながら自覚のない人もいれば、信心深いのか無宗教なのかすら曖昧な人もいる。

 

世界の中でも、ここまで信仰が混ざり合い、区切りが柔らかな国は珍しい。

そんな土壌に暮らしていると、自然とこの問いに行き着くことになる。

 

──あなたは何を信じますか?

 

私の答えは、実にシンプルだ。

 

「自分」である。

 

もっと正確に言えば、「自分が体験したこと」

 

「経験こそすべて」という言葉通り、経験から生まれた感覚や勘のようなものを、私は最も信頼している。

他者の言葉より、自分の五感で得た手応えのほうが、よほど頼りになるからだ。

 

もちろん、人も信じる。

ただし条件がある。

その人が “実際に経験した話” であること。

それならば、信用度は急上昇する。

 

逆に、「ネットに書いてあった」「らしいよ」といった話は、そう簡単には鵜呑みにしない。

そこには “責任” の所在がなく、情報としての重みも希薄だからだ。

 

今のネット空間には、軽い言葉が大量に漂っている。

プロが見れば苦笑してしまうような情報も多い。

 

なぜプロにはそれが分かるのか?

 

それは、彼らが実際に体を使い、時間を費やし、何度も失敗して身につけた経験があるからだ。

「そんな簡単な話なわけがない」と、身をもって知っているのである。

 

しかし、その “軽い情報” をそのまま他人に広めてしまうケースがある。

その人は、ほぼ間違いなく “体験” をしていない。

だから「らしいです」という伝聞になる。

 

アドバイスのつもりなのだろうが、体験の伴わない言葉には、無自覚な危うさが潜んでいる。

それはちょっとした “誘導” にも似ていて、知らぬ間に誰かを誤った道へ連れて行ってしまう可能性すらある。

信じる力の使い方を誤れば、人は簡単に流されてしまうものだ。

 

だからこそ、私は「経験こそが信じるに値する」と思っている。

言うなれば、私は「経験原理主義者」なのだろう。

自分が感じ、動き、ぶつかり、悩んできた結果にだけ、確かな信頼を置く。

 

世の中は今日も、無数の “らしい情報” に満ちている。

だが、どれだけ情報が溢れようとも、最後に自分を導くのは、自分の経験だけだ。

 

あなたは何を信じるだろうか。

私は今日も、経験を信じ、新たな経験を積み重ねるために、全力で生きる。