今年の正月。
じーちゃんに教わった方法で作った「豪の梅干し」を持って行った。
数年前から作り始めた梅干し。
目指すは「じーちゃんの梅干し」なのだけど、そのゴールは果てしなく遠い。
でも去年に作った梅干しは、ようやく人様にも食べさせられるレベルに達した。
なので、自信を持って師匠であるじーちゃんに持って行った。
じーちゃんは嬉しそうな顔をしながら「丁寧に作ってらぁ」と喜んでくれた。
昔からなにごとにも丁寧で評判なじーちゃんから「丁寧」をいただけた。
「丁寧」を引き継げた気がする。
梅干しの出来はまだまだだけど、一応は梅干しも引き継げた気がする。
ところで。
羽鳥家において、じーちゃんといえば「うどん」である。
伝説的にうまかった「じーちゃんの手打ちうどん」。
何度も作ってくれた。
そして私も姉も、何度も何度も手伝った。
なので、なんとなく作り方は覚えている。
「じーちゃんのうどん」と「ばーちゃんのつゆ」が組み合わさるともう最強。
私の中では世界一ウマイと思ううどん、それが「じーちゃんのうどん」である。
そんなじーちゃんのうどんの作り方の詳細を正月に教わろうとするも、なかなか会話が成立しなかった。
うどんのことを聞いているのに、なぜか蕎麦作りのことばかり答えてくる。
じーちゃんは何度も言ってた。
「蕎麦は本当に難しい。十割蕎麦なんて無理だ。いくらやっても無理だった」と。
私としては、じーちゃんの蕎麦も美味かったけど……。
そんなこんなで話が蕎麦に行くと、強引にうどんに戻し……を繰り返しながら、おぼろげながらこぼれた言葉をすかさずメモってみたものの、細かい塩分濃度などは聞き出せず。
同じく、「ばーちゃんのつゆ」についてばーちゃんに聞くも、これまた完璧な答えは聞き出せず。
もうこうなったら、記憶と勘だけで近づけさせるしかないな……と、長い年月がかかることを覚悟した。
ちなみにその日私が帰る時、なぜかじーちゃんはバイクで立ち去る私のことを拝んでいたと、その場にいた姉ちゃんが言っていた。
私の姿が見えなくなるまで拝んでいたそうだ。
それが何を意味しているのかは、わからない。
──その約1ヶ月後。
なんとなく「今日、うどんを作った方がいいな」という日があり、心の勢いに任せてうどんを作ってみた。
道具は一式揃えている。
というか「今日しかない」という感じでもあった。
うどんをフミフミ。
じーちゃんと一緒に踏んだうどん。
麺棒コロコロ。
心の中にハッキリと残るじーちゃんの動きをマネしながら。
麺切り包丁を使うのは初体験だけど、じーちゃんが切るところを山ほど見てきたのですんなりできた。
そして完成した「豪のうどん」は、なんとまさかの1回目にして、「ほぼ、じーちゃんのうどん」になっていた。
パーセンテージで言うなら90は超えている。
さらに「ばーちゃんのつゆ」に関しては、もう98%くらいまでに達していた。
記憶と勘頼りの初戦でこの完成度。
我ながら神がかっていた。
これはもう「引き継いだ」と言っても良いと思う。
それほどの完成度。
こうなると、この「じーちゃんのうどん、豪バージョン」をじーちゃん本人に食わせたい。
自信を持って食わせられる完璧な味。
そう思った私は、仕事を抜け出し、じーちゃんのいる施設へ、うどんとつゆ持参で飛んでいった。
なんならお椀とお箸も持って行った。
じーちゃんは車椅子に乗って、日当たりの良い場所で日向ぼっこをしているように見えた。
すぐに従兄弟と叔父もやってきた。
偶然、彼らも同じ時間にお見舞い予約をとっていた。
じーちゃんはあまり体調がよくないようで、「豪のうどん」を食べることはできなかったけど、じーっと「豪のうどん」を目視はしていた。
たぶん「豪、引き継いだな」と思ってくれたと思う。
たぶん。
その日、その後、じーちゃんは、私と従兄弟と手を繋ぎながら、施設内を少し歩いた。
2人の孫に両手を引かれながら、上機嫌で何かの歌を歌っていた。
幼い頃の私の手を繋ぎ、鼻歌を歌いながら天丼屋さん「銀座 天國」に連れて行ってくれたみたいに。
幼い頃の従兄弟の手を繋ぎ、鼻歌を歌いながら成田山へ連れて行ったみたいに。
数日後。
じーちゃんの具合が良くないと母から連絡。
珍しく時間が空いていたので、すぐさま施設へ急行した。
これが最後になると覚悟しながら。
私が到着すると、従兄弟ふくむ叔父一家がいた。
寝ているじーちゃんをじっと見ていた。
完全に寝ていると思ったけど、そうではなかった。
私が来る10分前に、じーちゃんは息を引き取ったそうな。
叔父一家も5分前に到着していたので、誰もその瞬間には居られなかったけど、なんとなくだが我々はギリギリセーフで間に合った気がした。
先生によるちゃんとした「確認」は、このあと先生が到着してからだと。
なので書類上はまだ死んでない。
まだ魂は部屋の中をフワフワしてると思う。
なんならまだ体の中にあると思う。
まだ体も温かいし。
セーフだ。
私はかなりのじーちゃんっ子だが、だいぶ私とは歳が離れた若者の従兄弟もまた、誰もが認めるおじーちゃんっ子。
2人の孫が、それも完全なる「じーちゃんっ子の孫2人」が、こうして2回も同じタイミングでじーちゃんに会いに来て、さらに最期を看取るなんて、なんらかの運命みたいなものを感じる。
私に、蕎麦のうまさ、うな重のうまさ、天丼のうまさを教えてくれたのは間違いなくじーちゃん。
「ここぞと言うときはケチらないで1番いいものを食え」というのもじーちゃんの教え。
私にいろいろな工具の使い方を、時には流血しながら教えてくれたのもじーちゃん。
ハシゴの登り方、崖っぷちの登り方、ハンダゴテ、ありとあらゆる「生きる術」をじーちゃんから学んだ。
「勝負」や「覚悟」を教えてくれたのもじーちゃんな気がする。
元気な時のじーちゃんは、ばーちゃんから「じっとしてな!」と怒られるほど、常に動き回っていた。
草木を手入れしたら、梅干しを作り、掃除をして、何かを直して、仏様にお祈りをして……と、常に忙しく動き回っていた。
私の落ち着きのない性格は、完全にじーちゃんゆずりだ。
なにごとにも全力でやり、何事も極めようとする性格もまた、たぶんじーちゃんの遺伝子だ。
従兄弟は従兄弟で、私とは違うじーちゃんイズムを教わり、受け継いでいると思う。
時間で言うなら、私より従兄弟のほうがじーちゃんといた時間は長かったかもしれない。
私はじーちゃんの「動」を、従兄弟はじーちゃんの「静」を受け継いだ気がする。
瓦屋の家に生まれたものの、裸一貫、丁稚奉公から始まったじーちゃんの本格的な瓦屋人生。
天才的な先見性により、発展する前の中目黒の駅前に瓦屋「羽鳥商店」を構え、卓越した商売センスで一時は目黒区の長者番付に何年も名を連ね、50歳にして当時の中目黒で1番背の高い「羽鳥ビル」を建てた。
その後、いろいろなことがあり中目黒からは撤退。
目黒区ではなく世田谷区に新たに構えた瓦屋「羽鳥商店」の幕も今から16年ほど前に閉じたけど、形を変え、その誇り高き屋号だけは私、孫の豪が引き継いだ。
それが、このブログだ。
私がたまにテレビに出ると、じーちゃんは喜んでいたそうだ。
特に2年前の『アンビリバボー』は大喜びだったようで、何度も「よくやった」「すごいことをした」「立派なことだ」と褒められた。
いろんな番組に出てきたけど、じーちゃんが生で見られるゴールデンの時間、じーちゃんでもわかるネタ (マサイ族)、そしてビートたけし本人からの「羽鳥さん」。
本当に、良いものを見せることができた。
親孝行ならぬ祖父孝行はできたと思う。
じーちゃん、羽鳥家は大丈夫。
オレがいるから安心して。
全力すぎる人生、本当にお疲れ様でした。
羽鳥家の偉大なるゴッドファーザー留男、94歳で安らかに眠る。
44年間、勉強させてもらいました。
心の底からリスペクト。
ありがとうございました。
合掌。
豪