もしかしたら私は気づいてしまったかもしれない。
人が人を「ただものではない」と思ってしまう条件を。
ジョギング中、休憩がてら公園へ。
池のまわりを歩いていると、ベンチが並ぶ穏やかなゾーンへ。
そこで、2人のおじさんが会話している。
2人ともスポーツしてます的な格好なのだが、片方の体勢がスゴかった。
ベンチひとつ使って完璧な開脚をしているのである。
CGで再現すると、ポーズ的には
こうだ。
ふたこと、みこと、なにやら健康的な会話をしている様子だが、ついに我慢できなくなった片方のスポーツおやじが
「開脚スゴイですねぇ」
と声にした。
すると開脚おやじは
「ええ、まぁ、けっこう柔らかくて」
よゆうの返事。
そのあたりで通り過ぎてしまったので、その後どのような会話がされたのかは不明だが、開脚おやじの「ただものではない感」はハンパなかった。
もしかしたらジャン=クロード・ヴァン・ダムばりのキックボクサーかもしれない。
もしかしたらポールおじさん佐藤英典ばりのポールダンサーかもしれない。
もしかしたら鶴ちゃんこと片岡鶴太郎ばりのヨガマスターかもしれない。
どんな可能性であっても、「ただものではない」のだ。
そもそも、なぜその「逆T」のようなスーパー開脚でベンチに座るのか。
もうその時点で「ただものではない」のである。
筋肉隆々のおっさんを見ても「ただものではない」と思う。
鉄棒とかでグルグル回っちゃうおやじを見ても「ただものではない」と思う。
どちらも、どちらかといえば「動」のタイプ。
大開脚でベンチに座る。
姿勢よく。
まっすぐを見て。
腕組みしてたらなおよし。
なんというか「仙人」の域。
こんな「静」な「ただものではないオヤジ」に、私はなりたい。
もっと開脚をがんばらねば。
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